『変態って最高!』 

(掲載記事を要約)

“性”の定義とは何か?
この問いに答えを出すため、田中幸夫監督は、
身体的行為または性的行為が一般的な常識の
枠外であると見なされている人々に注目した。
「♪デブ専、チビ専、老け専、汚れ専、アナル、スカトロ、
縛り、吊り下げ、露出、改造系…変態~変態~変態!」
放禁歌手・小林万里子は鞭を振り回しながら大音響で歌う。
時には聴衆を鞭打つパフォーマンスも見せながら。
ところ変わってSMカップル10年目の結婚記念パーティ。
肉感的な妻は若き日の写真を誇らしげに見せながら
「裸を晒しながら日本中を旅して回るストリッパーでした」
ほっそりした夫は叫ぶ。「変態万歳!変態最高!」

このドキュメンタリー制作は、パリもしくはリマでも同じように
ドラァグクイーンやサド・マゾカップルの奇怪で異様な場面を
撮影することもできただろう。しかし、これは日本で撮影された。
“異質”であるということ自体が、非常に堪えがたいだろうと
容易に想像される国・日本で…。

ドキュメンタリー作家・田中幸夫監督の最新作『凍蝶圖鑑』は、
パリ日本文化会館の招待作品として2月と3月に上映された。
この映画に田中監督は心理学者や社会学者たちを一切介入
させていない。出演している人たちには、醜い人、美しい人、
入れ墨の人、傷のある人、天使のような人、すけべな人、
はしゃいだ人などがいて、自らの経験だけを話す。
彼らの言葉は、人間社会が抱えている性の混沌そのものだ。
田中監督は彼らの分析能力を期待しているのではなく、
むしろ彼らの極端なアプローチの仕方に注目する。
彼らは顔を隠すこともなければ、彼らの世界を隠しもしない。
それは時として見世物小屋を見ているかのようだ。
カメラは縦横に、フェティシストたちの集まりや歓楽街、ギャラリー、
スタジオ、バー、刑務所、公民館、奥深い寺などで彼らを捉える。
欲情か?狂気か?脳や遺伝の変調か?
インタビューを通して田中監督は、ある一つの答えを導き出す。
“性”とは人と共に生まれ、人と共に育つもの。
しかし、性の起源については謎のまま。
自分の性を嫌悪し、永遠にその性を認めることが出来ずに、
性がべったりしつこく自分の身体にくっ付いて、どうしても剝がす
ことが出来ず苦悩する人がいる。あるいは逆に、自分の本当の性を
一生かけて探りあてたい、見出したいと希望しつつ生きる人もいる。
……性を自分の思い通りにするのは容易ではない、という処だろうか。

「リカちゃん人形の顔をマジックで塗りつぶし母親に怒られたりとか。
でも何で怒られているのか分からないし、自分が何でそんな事を
しているのかもまだ分からなかったし…」 ai kotoniは、自らを
「汚辱の処女」と定義する。彼女の性はウェット&メッシー。
「濡れたり汚れたりとか、濡らしたり汚したりする事が好き」だと言う。
彼女にはそれ以上言葉で説明ができない。
つまり彼女は、なぜ自分自身を粘液質の液体やペンキやクリームで
汚したいという衝動があるのか分からない。例えば、バニラ味より
チョコレート味の方が好きであることに疑問を持たないのと同じことだ。
この映画では、殆どの出演者が自分の性を宿命とみなして語っている。
それは彼らに降りかかってきたものだ。
少なくとも漫画の主人公オベリックスが自ら大鍋に《落っこちた》ように
彼らも《落っこちた》というのでもない限り。
「性の好みを決定する遺伝の問題です」と、元ストリッパーの妻は言う。
とにかく、たった一つ確実なことは、彼女はサド・マゾヒズムの人にしか
恋ができないということだ。
「同性愛者は生まれた時から同性の人しか好きになれません。それは
私たちにとっても同じことで、SM以外には喜びを感じられないんです」

同性愛の世界を描く漫画家・大黒堂ミロによると、それは全く正反対だ。
「酒飲んで暴れるアル中の父と子どもよりも父を大事にする母の間で
家の中に居場所はなかった。で、中学生の頃から妖しげな街に出て
浮浪者と酒を飲んだり。気がつくとナンパされてアオカンもやりました。
ホモの溜まり場だった映画館にも入り浸って…。
女装の男にチンコしゃぶらしてるオッチャン達は、俺らはホモやなくて
ノンケやって言うのを子どもの頃から普通に聞いてましたね。
ずっと可愛がってくれたオッチャンやオバチャン、オカマも含めて
そこには疑似家族的な繋がりが色濃くありました」と言う。
彼は田中監督をフェラチオをしたりされたりする映画館へ連れていく。
入口には“売れ残り?待ちぼうけ?幸せ探しの3本立て”という
キャッチコピーが貼ってある。「映画を見るためのコピーじゃなくて、
中でハッテンして下さいっていう意味」と、笑いながら説明する。
性とは、幸福探しなのか?
それとも自分の宿命となんとか折り合いをつけようとする試みなのか?

このドキュメンタリー映画の題名が、一つの答えを提示している。
“凍蝶”という言葉は、詩に興味のある人なら知っているものだ。
俳句では季語と呼ばれ、極寒の冬に動きの鈍くなった翅を微かに
動かしている蝶の姿を瞬時に思い起こさせる。
「凍蝶の己が魂追うて飛ぶ」という高浜虚子の最も有名な俳句が
映画の頭にさりげなく引用されている。
自分と自分の魂に共有された蝶が、云わば狩人自身が獲物に
なってしまうという錯乱状態の中で飛び回る、という奇妙なイメージだ。
殆どの出演者は、二つに分離した自分がいることを打ち明けている。
性同一性障害の倉田めばは言う。「精神病院には4回入りました。
言いたいことがあるのに、ちゃんと言葉で言えないから代わりに薬を
使っていたんです。生まれて初めてミニスカートを穿いて街へ出たら
脳の中からアドレナリンがびゃーって出るのが分かって。
薬が止まって11年位経った頃に、元々、自分の中にそういうことが
あったっていうことを認めていきましたね」
自分がどんな人間かを理解するのに11年もかかるとは…。
大多数の人は、この道(注:フランス語題名『冬の蝶、或いは性の道』)を
半分も歩むことなく死んでいくようだ。
ボディービルダーで、パンクロックのミュージシャンで、前科があり、
DQNと呼ばれ、ファッションショーのモデルでもある刺青師・彫修羅を
田中監督が撮影した理由はそこにあるのかもしれない。
自作の詩で「苛虐的思考と非苛虐的思考が日に何度も頭を巡り…
自滅消滅を神に祈り、呼吸を止めて死に挑んでみたり」と表現する。
彼は何を回避したいのか?何故そこまで男性的であろうとするのか?
映画では、もう一人のボディービルダーが分別をもってこう答える。
「脳にはY字型の模様が沢山ありますね。私には女性器がいっぱい
重なっているように見えるんですよ。…今? 64歳です」
鉛筆画家の林良文が描く殆どの作品は、女性が排便する姿だ。
何故なら彼にとって排泄物のうねりは脳のうねりを想起させるからだ。
Y字型がイメージさせる女性の柔らかな性器。
そう、彼にとって、すべての人間は、
脳と結腸を持った欲望だらけの矛盾に満ちた機械なのだ。
……さて、それらを受け入れるのは、それほど難しいことだろうか?

アニエス・ジアール(仏ジャーナリスト:「エロティック・ジャポン」著)